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中 正敏 |
代々 太郎兵衛を名のる
連子格子の古びた門に掲げた木の表札
楷書の墨字は 祖父か父か
曽祖父は泊園(はくえん)書院へ野田村から瓦町に歩いて
藤沢南岳の書講をうける魚の問屋
作家恒夫の祖父は寒霞渓名づけの(とうがい)の子
元天魔与力の大塩平八郎
北堀江通りの蘭学木村蒹葭(けんか)堂
適塾緒方洪庵らは名の高い なにわの良識 |
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大坂は 浪華(なにはな) 訛って難波(なにわ)
方(まさ)に難波の碕(さき)に至るとき
奔潮(はやきなみ)ありて太(はなは)だ急(はや)きに会いぬ
神武東征の浪華命名説よりも
ぼくは 魚(さかな)屋十二代目太郎兵衛
難波は 八十(やそ)島 魚(な)場(にわ)をとる
野田 福島は入江が近かった
昔から魚がいやほど獲(と)れて
雑魚(ざこ)を売る棒手振りの声が空にひびいた |
春の遊びは 吉野の桜 野田の藤
玉川の流れに影をうつす藤の棚は
奈良、春日神社のゆかり藤原の縁つづき
「下(さが)り藤」を紋どころとする藤氏の庭園
藤影にゆれる時が消えるのを
将軍足利義詮も忘れ
秀吉も玉川に舟を浮かべた
夜々、古井戸を這いのぼる白蛇の伝説
巳(みい)さんの祠と古井戸は
子供の遊び場だったが
いまわしい焼夷弾の炎に
野田藤は棚とともに焼けおち
野田玉川の空を赫く焦がしてしまった |
大阪春秋社 「大阪春秋」第80号より |
1915年大阪市福島区玉川町3-82に生まれ、5歳で父死亡のため十二代目太郎兵衛を襲名。雑喉場野田庄鮮魚問屋の当主となり、中央卸売市場移行と共に廃業。
野田小学校から北野中学をへて市立大阪商科大学(現大阪市大)で末川博教授に学ぶ。住友総本社に入社、石炭鉱業を退いて詩作を始める。
著書に詩集『水の鎹』、詩論集『詩とともに』、書簡集『X社への手紙』など18冊、詩集『ザウルスの車』により第10回壷井繁治賞受賞。
元日本現代詩人会会員、新日本文学学校講師、詩誌『詩学』の詩書選評、壷井繁治賞選考委員長などをへて、『人のいない国』刊行。 |
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