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中 正敏

 大阪市に編入された難波(なにわ)の西成郡野田村は、古くから藤の名所として知られていた。
 奈良の春日神社の宮司藤氏は、藤原一門の流れであったが、野田の里に移るにあたり、春日の藤を移植した。陽光に匂う藤の花は清らかな玉川の清流に映え、藤の名所として広い敷地を誇っていた。
 かつて大阪に城を築いた太閤秀吉も、春の一日玉川の水に垂れる藤の花を愛でたといわれるが、野田藤の名でその品種は浦々に広がっていった。しかし、あの忌むべき十五年戦争のB29の空爆により、野田の藤は屋敷とともに焦土に消え去ってしまったのである。
 その後、焼け跡から芽生えたのが、玉川小学校に近い下福島公園などに植えられるとともに、大阪府立北野高校の校庭の「万葉の森」に、その昔を偲んで花の栄が伝えられているばかりだ。
 野田藤の品種が全国にゆきわたっているのに、藤家の藤が焼け落ちた屋敷近くの広大な藤の棚にその面影を見ることができなくなったのは、栄枯盛衰の世とはいえ、難波の惜しまれる歴史の遷りかわりである。いたましい戦渦の不条理な傷跡といえる。
 浄土宗の開祖、法然上人が『本願念仏集』を著したのは、平安末期鎌倉初期であった。室町後期にその中興の師といわれる蓮如上人は、本願の宗旨を継ぎ山科に本願寺を建てたあと、大阪に石山本願寺を建立したのは、1496年(明応5)、いまからおよそ500年以前のことであった。
 いわゆる『正信偈大意』を著作し、あまねく庶民のなかに浄土真宗の念仏が聲明(しょうみょう)されることとなったのは、平安な日々の営みを希求する庶民のひたすらな願いであった。
 戦国時代の戦火に人間としての生存の尊厳を踏みにじられた民衆が、自我の安らぎを求めて佛法により救われようとするのを恐れた支配層の武士階級は、宗門の弾圧により民衆を乖離(かいり)させて下人としての服従を強いて、全国制覇の野望を遂げようとした。
 この弾圧による法離を免れるため、石山本願寺は野田村に出城(でじろ)として野田の砦を構えたのである。15年戦争により強制疎開を命ぜられた私宅の座敷庭に、御影石の大きな丸石があったが、この砦のなかにあった建物の柱の敷石だったと伝えられている。
 出城は現存の極楽寺、恵美須神社、円満寺、旧藤邸および、私宅、玉川小学校を含む玉川町一帯であった。玉川の清流を埋めたてた道路の西北、あさひ銀行の前に「野田城跡」の碑が建っている。砦の中心から見やすい玉川交差点の角に便宜上移されたものである。
 出城を巡視に来た證如上人を亡きものにしようと、近江の国の佐々木弾定の軍が不意に襲ったのを、野田の村人が救って紀州へ逃がしたのである。鋤鍬を持って弾圧に抗い討ち死した21人の村人を悼み顕彰する碑が、いまも極楽寺の寺領に残されていて、その労をねぎらって野田御坊極楽寺は東本願寺野田別院として破格の称号を与えられたという。
 井原西鶴の『日本永代蔵』に、破産した油商人が淀川で川魚をとって成功するくだりがある。野田の村人も農作とともに川の魚介をとり、野田の砦の下で商いはじめたのである。
 砦下で商いする村人を天正年間に秀吉が、一ヶ所に集めて魚の市を立てさせたという。雑喉場の嚆矢であり、はじめはザコを商っていたといわれる。
 このとき野田の村人がこれに加わり、のち江戸時代の初期に鷺島において魚商の資格が与えられたが、その中に『野田屋』の名があったと伝えられている。

 『野田庄』は中央市場制に移行するまで、雑喉場で鮮魚問屋を営み、茅淳(ちぬ)の海と呼ばれる大阪湾の魚介類をはじめ、『まるは』(太洋漁業(株))その他防州や長州ほかの網元に漁船建造の資金を貸し与えて、その漁獲を集中的に集荷していた。難波の商人ことに問屋は資金貸付による金融業務をかねていたのも、大阪の経済的繁栄の一助であったのは、大阪経済発展史の史的研究テーマである。

 『野田庄』の店主の名は代々太郎兵衛と称して襲名してきたが、父辰之助は第11代、正敏である筆者は第12代に当たっている。
 『野田庄』が『野田屋』につながっているか否か、まだ、太郎兵衛を名のる以前であって、両者の関係は不詳とはいえ、野田村の村人が雑喉場の発祥に加わっていたのは、銘記されてよい。藤氏に縁故のある北口氏も、雑喉場の商人であったが、当家の祖母のうまれた実家でもある。

 野田の村人が開発の一助となった雑喉場の隣接地の通称靭(うつぼ)の町名は、秀吉の声がかりだといわれている。<安い、安い>と商いの声を掛けていたのを聞きとめた秀吉が、<安い>は<矢巣い>(安居)と同音であり、矢が放たれずに靭のなかに入れられて安居しているのは、平和の印である。これはよい。以後町の名をウツボと名づけるがよい、と呟かれたとのこと。
 与えられた魚商の資格は、権利としてやがて営利と投機の標的となり、問屋株がみだりに高値で売買されることとなった。また取り締まりの支配者への厖大な運上金が必要となり、家業を支え切れぬ者が問屋株を放棄廃業するなど、市場に栄枯盛衰の影があらわれるに至った。江戸時代から維新後の繁栄をへて、中央卸売市場制となるまでに、古来の老舗を守りつづけた問屋は何軒あったのだろう。
 
 1931年中央卸売市場となるとき、卸売人が単一制では庶民の魚価が独占的に操作されて物価高を招くとして、野田庄(12代中太郎兵衛の法定後見人英子の婿養子平吉)、松卯(澤卯兵衛)、綿末(膳(かしわで)末次郎)ら有力な問屋が複数制を主張したが、関一市長の裁断により単一制の中央卸売市場の機構がうまれたのである。

 その大阪海魚株式会社の初代社長に、膳氏の先代末次郎氏が就任したが、同家は古来宮中の膳部司(かしわべのつかさ)の由緒ある家系である。また京都の市場を取り仕切る大商人であったが、大阪雑喉場の大手問屋としても知られている。
 以上、藤の里の野田の村人が、近代の大阪ばかりでなく庶民の台所をまかなう市場の発祥に加わっていたことは、忘れえぬ貴重な歴史的事実である。

 その雑魚場で働き今も生存しておられる膳隆造、神宋・尾崎雅一(昨年物故)、杉本敬太郎(今年物故)、各氏らの代表委員により、雑魚場魚市場の記念碑の建設が計画され、1993年12月に建立されたのは、有意義であり慶祝されるにちがいない。
 なお、杉本氏が『野田庄』の重要な番頭として貢献したのち、成和水産株式会社の社長および水産物卸協同組合の常任理事として水産業界に大きな足跡を残し、『綿末』の膳氏とともに、雑魚場の跡地百間堀近くに、記念碑建立のため奔走尽力されたのは、同慶至極である。
 このエッセイをまとめるに当たり、因縁深いものを感じ、野田の里と市場を思う心情は尽きないものがある。
 
大阪春秋社「大阪春秋第80号」より
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