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■雑喉場以前
 16世紀前半に石山本願寺を中心に発達してきた大坂は、豊臣秀吉が大阪城を築城(天正11・1583年)して以来、全国各地から大名と武士たち、城造り・街造りに駆り出された職人たち、敗残の浪人たちが集まり、新しい街、大坂の食料需要は急速に高まった。これらの人口増に対処するため、青物類は近郊農村の野菜類で充足できたが、水産物は石山本願寺時代から琵琶湖に発する淀川や、奈良盆地の水を集めた大和川の淡水魚介類が供給されていたものの、海産魚類の供給はまだ充分ではなかった。
 海魚商人たちは、堺湊や尼崎湊から京への積荷に対応していて、「大坂天満宮」の門前町、天満郷の魚屋町に集まっていた。この海魚商人たちが、秀吉の大坂築城に呼応して、新たに拓かれた船場(せんば)に集団で移住してきた。この地が後に本天満町・本靱町(現中央区伏見町)といわれるようになる。その時期は築城後の天正11年から慶長2(1597)年前後とされている。

 慶長19(1614)年の大坂冬の陣、翌元和元(1615)年の夏の陣によって、大坂市中は灰燼に帰したが、戦いが収まると、町民は元の場所に戻った。船場の天満町や靱町は、土佐堀川の船舶往来でごった返し、漁船の出入りに支障をきたすようになったので、生魚商人たちは、元和4(1618)年南へ6筋目の安土町・備後町に移住した。この海魚商人の集団を「17軒会屋(といや)」というようになる。会屋は「日々会合して相場を立てる」(『雑喉場魚市場沿革史』、以下『沿革史』)ことからくる名称で、日本の卸売商業の古代、中世から、津・津屋・問(とい)・問丸・問屋と変化しているが、各地の荘園から、年貢、特産品などを京都に運ぶ業者や、湊で受渡しする業者、商品を仲介する業者などを問屋といい、この<といや>を当時は「会屋」と書いた。のちにこの地を上魚屋町というようになる。
 しばらくここで商内(あきない)を続けていたが、街が発展し、西国各地の浦々からの出荷が増えると、東横堀川の入口が混雑するようになり、鮮度の低下、腐敗などで夏季の生魚取扱に不便を感じるようになる。そのため古くは敷津浦ともいった西船場の鷺島に商内の場を移動するようになった。


■雑喉場の成立
 元和から30年程経た慶安・承応年間(1648〜55)になると、3月から10月までは鷺島で商内し、11月から翌年2月の冬季には、本店(ほんだな)に帰って商内をするようになる。その後も「四辺清爽」(『沿革史』)な鷺島に、本店を移す生魚問屋が徐々に増えていく。延宝7(1679)年には鷺島に本店を移転した生魚問屋は10軒、上魚屋町に本店をもつもの3軒という具合であった。鷺島に到着した魚荷は仲仕が瀬取舟(せどりぶね)や小廻舟(こまわしぶね)で本店まで運ぶが、これを「沖揚り(おきあがり)」といった。
 鷺島に商内の主力が移ると、鷺島を雑喉場というようになる。明暦元(1655)年の「大坂三郷町絵図」に、ざこばという地名があるので、この頃には町として成立していたことが窺える。雑喉場に移ったあとは、船場の天満町・靱町のことを本天満町・本靱町というようになる。なお、「雑喉場」という地名であるが、「喉(こう)」は、古くから魚を数える時の数詞で、植物の蔓や藁を魚のエラにさして持運びしたことから、一喉、二喉と数えていた。また、種々雑多な多種多様な魚介類が集まる場として、「雑喉場」は魚を取引する場というようになった。高知市にも同名の場所がある。
 
 天和3(1683)年、雑喉場に生魚が大量に入荷し、捌ききれなかったので、生魚問屋の傭人たちが、直接町人たちに販売した。これを「前売生魚商人」といった。当初は5人だけであったが次第に増え、後に、雑喉場の南北横町に店を構えるようになり、「生魚仲買」といわれるようになる。生魚仲買たちは、店に日除けの筵(むしろ)を張り、市場道路には敷石を敷くことを決めている。
 生魚取引は掛取引であったので、商人たちは生魚問屋に担保銀を入れていた。当初は銀目払であったが、貞享2(1685)年に銀払の魚代銀を銭(ぜに)目払にあらためている。これを「差銭(さしぜに)=緡銭(びんぜに)」といった。町人から受取った銭目を銀目に替えて生魚問屋に支払うと、金銀換算時に相場の変動で損失が出るので、銭目払を要請し、承認を得ることができた。この時期になると、小売商人たちが同業仲間として生魚問屋に対して、取引上の交渉ができる状態にまで発展してきたことがわかる。


■雑喉場生魚問屋仲間の公許
 慶長・寛永年間(1596〜1644)にはすでに株仲間制度の成立している業種もあったが、生魚問屋は、近世・徳川中期の明和9(1772)年9月22日に西町奉行神谷清俊から、生魚問屋株84枚が公許された。株願銀30貫目、永世銀として年銀9貫目を毎年11月に上納すること、年行司3人、定行司1人をおき、株仲間の事務を担当することになった。
 株仲間免許の翌年安永2(1773)年4月に「問屋中申合定書」を制定した。『沿革史』によると、雑喉場生魚問屋が初めて公式に明らかにした規約であった。「定書」は、規則4カ条、売場関係5カ条、産地関係9カ条、仲買関係2カ条、雇傭関係1カ条に奥書がある。奥書には、生魚問屋仲間が相談して取極め、町奉行所に届け、承認されたことが記され、翌年11月に1部改正している。天明元(1781)年12月には「問屋一般申合定法」を遵守することを申合せしているが、安永2年以来、取引の対象や範囲、商品等が拡大し、取扱高が増えるにしたがい、多くの違反者をだすようになり、市場の規律が紊乱するようになっていたからである。
 
 次に、文政2(1819)年になると、さきの「定書」を補充し、より具体的にまとめたものとして「魚問屋仲間定法」に改定している。この定書で初めて罰則が明らかになった。
 寛政10(1798)年4月15日、初めて問屋会所(事務所)が設置される。これまでは一定の会所がなく、年行司の私宅を利用していたが不便になったので、雑喉場町の荒物屋九兵衛抱屋敷同人所有の家屋を升屋八兵衛名義で買受け、生魚問屋寄合勘定場とし、西町奉行所に出願して許可を得た。この問屋会所は昭和6(1931)年11月11日に大阪市中央卸売市場に生魚問屋が収容されるまで使用していた。
 天保12(1841)年5月幕府は天保の改革を始めた。永年の幕府財産の危機と、諸物価高騰から、経済政策の立直しと奢侈禁止、風俗矯正、困窮した旗本の救済、農村への「人返し」という帰農運動等にあったが、最大のねらいは物価問題であり、低物価政策の実施であった。同年12月に一切の株仲間と組合の廃止を実施した。自由競争によって物価の引下げを図ろうとしたが、結局、商業組織の破壊以外の何物ももたらさなかった。翌13年3月には「問屋」という名称も廃止させた。同年6月には「諸色」値段の2割以上の値下の強制であった。このため、大坂の物価は諸国の物価と比べて下値になり、大坂への出荷は減り、商品在庫が払底して、物価は値上がりするという現象が生じた。

 10年後の嘉永4(1851)年、問屋・組合の株制再興によって、従来の問屋商人は再び生魚問屋業に復帰し、雑喉場も再公認された。しかし、問屋株停止の10年間に誕生した新規の商人や市場外での取引は簡単に止まらず、正常取引のために警戒と排除に努めなければならなかった。


■株仲間の解放
 慶応3(1867)年10月14日、15代将軍・徳川慶喜は大政奉還上表を朝廷に提出し、同19日征夷大将軍の辞表を提出する。12月9日(新暦4年1月3日)朝廷の「王政復古の大号令」によって発足した新政府は、翌年1月3日(新暦1月27日)の京都・鳥羽伏見での戊辰戦争で新政府が勝利し、徳川慶喜は川口から乗船、開陽丸で江戸に逃げ帰った。これで260年余りつづいた徳川幕府の命運は尽きた。
 同4(1868)年5月9日、西日本・北陸の通貨であった「銀取引」が全廃になり、5月15日には「金札」使用の命令がでる。5月13日、問屋会所で問屋総会を開き、荷主や魚商人らとの交渉のため、14日から18日まで休市し、15日と16日に問屋と魚商人が集まり、相談の結果、「正銀の取引は今後一切禁止、現金取引の方法を決める」と決議する。

 明治元(1868)年12月、出買仲間組合(生魚仲買)が組織され、問屋年行司播磨屋萬次郎、神崎屋平九郎と「約定」を取交している。同2年9月、政府は通商局を設立し、新しい商業政策を実施する。雑喉場に対して「生魚商社」の設立を命じた。11月に「生魚商社規則」を制定し、2千両の積立金で設立した。社長に年行司の播磨屋萬次郎、執事に同年行司の神崎屋平九郎、管事には大和屋彌三兵衛が就任した。『沿革史』には、この生魚商社のその後のことが記録されていない。
 同3年になると、従来の商取引を改革する動きが、大阪府からも生魚問屋側からも出てくる。取引決済期日の短縮や、歩引問題などであった。この時に大阪府に提出した生魚問屋名簿は39人であった。翌4年には、大阪府から時勢に適した取締法を制定すべしと命じられ、新たに「規則書」「約定書」を制定し、荷主代表とともに大阪府に「口上書」を提出している。同年10月25日に、大阪府は惣行司・年行司と出買の4人を呼出し、雑喉場を改めて魚市場と称し、出買渡世を魚屋渡世と称するように命じたので、この時から雑喉場のことを魚市場というようになった。
 次いで同月28日、府令「市場掟書」が出された。この「市場掟書」によって、明和9(1772)年以来、100年余り続いた株仲間制度は「全く解放せられ、毎年上納せし冥加銀9貫目を廃せられ、問屋仕切金100分の1を上納せしめられ、府庁の吏員市場を臨検し、境界の標杭を改め、市場新橋の東北側に掲示板を新設し、廿8日を以て達せられたる市場改正の掟書を掲げて一般に公示し」(『沿革史』)とあり、問屋には株札に換えて鑑札が下付けされた。対象は、生魚問屋40軒、魚屋仲間(仲買)109軒であった。明治13(1880)年12月13日に「海魚問屋仲間規則」を制定し、大阪府知事からの許可を得ている。
 
 生魚仲買の状態をみると、「前売生魚商人」・「出売」から出発した生魚仲買は、明治4年の時点には109軒になっていたが、明治以後は、生魚仲買と呼ぶようになる。明治7(1874)年に、「仲間規約」を改め、同21年から特立税である「仲買人税」は「市場税」に編入され、同30年からさらに「生魚卸売業」として営業するようになる。この30年代の生魚仲買は85人であった。


■有魚銀行の創設
 大阪商工業の発達が都市人口を増大させ、人口増に伴う食料の需要が増え、一方、明治期以後の繊維工業の発達によって紡績工業が盛んになり、綿網も普及するようになる。明治10(1977)年の西南戦役以後の大阪は、経済の好不況があったが、食料需要の増大により、生魚問屋の商内は日々繁栄し、西日本各地から東海、北陸にまで取引範囲は拡大し、通信業務も緒につき、雑喉場の対岸の江之子島に、明治5(1872)年5月、大阪最初の川口郵便局が開設され、仕切金送付に役立つようになる。明治15(1882)年5月には資本金10万円で、雑喉場専属の私立「有魚(ゆうぎょ)銀行」を創設した。この銀行は雑喉場の主な生魚問屋が出資し、仕切金送金の事務処理に対応させるためのもので、明治21年2月の「約則書」によると「魚市場本組」(略称「魚本組(うおぼんぐみ)」)という組は、出資者11人の当座借越勘定を設けている。仕切金送付に対し、支払枠を出資額の一倍半までを目安としており、毎月20円を積立てている。この「魚本組」の支払は仕切金(本業海魚)だけに限ると定めている。

 有魚銀行は、明治26年(1893)年6月に資本金3万円で有魚貯蓄銀行を併設している。明治中期には各地で数多く私立銀行が設立されたが、魚市場関係ではこれだけではなかろうか。ただ堺には生魚問屋設立の指吸銀行と、鹿喰銀行がある。

 有魚銀行はのちに、明治34(1901)年の4月からはじまる大阪の銀行恐慌により、同年10月株式会社三十四銀行と合併した。三十四銀行は昭和8(1933)年には鴻池、山口の両銀行と合併して現在の三和銀行になった。有魚貯蓄銀行は、明治35(1902)年に任意解散している。


■近代漁業への貢献
 明治36(1903)年3月1日から7月末まで、天王寺公園一帯で開かれた第5回内国勧業博覧会は、丁度昭和45年(1970)年に開催された大阪万国博覧会の明治版で、それまでの博覧会に比して規模の大きいものであった。水産関係から多く出品されたが、特筆すべきものに、(1)生魚問屋の阪又・酒井猪太郎が日本最初の「人工冷凍魚」を出品して人々を驚かせたこと。(2)日本最初の「2階建冷凍倉庫」が出品されたこと。(3)林兼(はやかね)商店の中部幾次郎が、大阪市内の堀川を巡る巡航船を手掛かりに、石油発動機付生魚運搬船の考案に着手したこと。この3点が、博覧会によって生魚業界に大きな影響を与えたのである。これらの諸要因がその後の近代日本の漁業の発展につながって行く。

 大阪と下関との間に山陽鉄道が開通した明治34(1901)年5月前後から、生魚問屋の幹部を中心に生魚の鉄道輸送が検討されるようになった。明治41(1908)年に、主として西日本海域の底曳網物を下関からと、静岡県焼津市場の腐敗度の早い生節(なまぶし)を大阪に引くため、雑喉場生魚問屋たちの出資で、汽車製造合資会社(大阪)で10トン積冷蔵貨車(レ)10輌を製造、帝国鉄道庁(現JR)に寄贈し、同年6月16日から冷蔵貨車輸送がはじまった。翌年には東京でも冷蔵貨車が利用されたが、大阪で冷蔵貨車を製造し、帝鉄に寄贈したのは大阪が全国で最初であった。

 日本水産株式会社、マルハ株式会社等の近代的資本漁業は、その発生の当社から直接的、間接的を問わず雑喉場の生魚問屋と取引をつづけることで、飛躍的に発達していった。これは日本最大の商工都市大阪の消費者の食料需要と、瀬戸内海を前にした古くからの魚食文化が培われており、西日本周辺や、朝鮮海峡、東シナ海の豊富な魚族が、大阪の魚食を支えてきたからである。

 一方、近代的な工業の発展によって、漁船、漁網、鉄道、冷蔵の各部門が急速な進歩をもたらし、明治末期から大正期、昭和初期までの約20年間に、西日本海域の漁業生産は飛躍的な進展を遂げている。これらの魚撈技術や輸送面の発達は資本漁業の急成長をうながし、大阪を中心にした関西圏の旺盛な魚食需要の供給をみたし、その上、急激な人口増に支えられることで、ますます魚獲量の卸売を促進し、拡大成長することが可能になった。


参考資料 
大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念事業委員会編
「本場50年の歩み」
(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会編
「大阪雑喉場魚問屋史料」より
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