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■中央卸売市場法の制定
 明治末期から、食品衛生と伝染病防止という目的で、明治40(1907)年と大正元(1912)年の二度にわたって「市場法」が帝国会議に提出されたが成立しなかった。大正3(1914)年7月〜同7(1918)年11月まで第1次世界戦争が起こり、軍需景気で沸き立つとともに、戦争によるインフレーションで物価高騰が起こり、大正7(1918)年には大阪市は全国に先駆けて米騒動の起きる前に東西南北4カ所に試験的に「公設小売市場」を開設し、低物価政策の実施に着手している。その結果、小売市場の改革だけでは手落ちであるとわかり、卸売市場の公営化が提起され、大正11(1922)年に「中央卸売市場法」が帝国会議に提出されて、翌12年3月末日に成立する。

 この中央卸売市場法は、永年続いた問屋制度を解消し、問屋老舗権(暖簾権・営業権)を査定に基づき出資させることで問屋資本とその機能を中央卸売市場内の業種別単一荷受会社に吸収してしまう。仲買は仲買人制度として残し、仲買機能を発揮させるという、旧来の問屋・仲買制度を根本的・構造的に改めた新しい仕組みが中央卸売市場制度であった。その上、国家が種々の保護と制限を加え、地方自治体の監督下におき「業務規則」によって取引全般を規制する、新しい形の統制的な中央卸売市場の運営を目指していた。


■中央卸売市場の建設
 大阪市では中央卸売市場法公布以前の大正10年(1921)から12年(1923)にかけて他都市に先駆けて生魚鮮食料品卸売市場に関する各種の調査を進めていたため、速やかにその具体化の作業に取り組むことができた。大正13年(1924)1月には関一大阪市長を委員長とする「臨時中央卸売市場調査委員会」が設置され、大阪府・市・議会・商工会議所、鉄道省ならびに雑喉場魚市場、天満魚市場、本津難波魚市場、靭塩干魚鰹節商組合、大阪青果合会など当業者から成る委員47名が委嘱された。調査委員会は直ちに市場敷地候補の選定を行なうなど、中央卸売市場開設への出足は順調で、翌大正14年(1925)3月9日、早くも大阪市中央卸売市場の開設許可を農商務大臣に提出、3月25日付けで認可された。この開設認可は6大都市中央卸売市場のうちで最初のものであった。

 市理事者側は最初、審査委員会に対し市場敷地候補地として17カ所を示した。委員会はこのうちからまず木津川沿岸三軒家付近、尻無川沿岸岩崎橋下流付近、尻無川沿い市岡付近および安治川沿い船津橋付近の4カ所を選定、大正13年(1924)3月になって、このうち大阪市の中央に位置する船津橋北詰め安治川沿岸の地を中央卸売市場の最適地と決定した。この地は、南は安治川に直面して1,000トン級の汽船が溯航、係船可能であり、北方からは西成線の分岐によって鉄道便の搬入も容易であり、一点の非難の余地がない、理想的適地として選定されたのであった。

 市会に対する中央卸売市場建設案の提出は大正13年(1924)年2月に市場創設の件、同創設費起債の件および継続年期・支払い方法の件が提案された。当初計画では概算1,600万円とし、うち1,500万円を起債により、大正12年から14年度までの3カ年の継続事業とするもので、市会は同年3月27日に原案通り可決した。しかし用地買収費等に不足し、のち200万円を増加し1,800万円とするとともに年期を2カ年延期し、大正16年(1927)にわたる継続事業とすることと修正された。

 こうして中央卸売市場の建設はスタートしたが、何分市場の敷地が3万6,700坪(12万1,330平方メートル)も必要というのに、この辺りには空地が全くなく、住友伸銅所、住友倉庫、帝国冷蔵、下福島小学校その他の大建築物を始めとして、人家300余戸があるという密集地滞であった。このため、約五年間は地上物件の立退に費された。昭和3年(1928)住友伸銅工場の一部の立退きで、同年九月に冷蔵庫を建設、稼動したほかは、建設工事が大幅に遅れ、中央卸売市場の竣工式が行なわれたのは昭和6年(1931)3月28日であった。
 市場の設計については、児玉技師を欧米に派遣して各地卸売市場の建物その他の利用状況を詳細調査せしめるなど、極めて慎重な考慮が払われたが、決定までにはさらに関係者の間で議論百出し容易ならぬものがあった。その甲斐あって地勢、取扱物品の種類、商取引の実際など、大阪市の実情を深く考慮した、独自の設計によるものとなり、当時としては世界に誇れるものであった。


■業者の収容
 大阪市中央卸売市場はわが国中央卸売市場開設認可第一号でありながら、その開場が遅れたのは用地取得が難航したためばかりではなかった。肝心の中央卸売市場で営業する問屋(卸売人)の収容をめぐって、いわゆる「単複問題」がおこり、この収拾に業界、開設者とも没頭したため、開業に当って必要な他の諸準備が大幅に遅れたのであった。
 法に基づき、中央卸売市場の卸売人として優先的に収容される資格者は、大阪の場合、大正14年(1925)3月25日現在、中央卸売市場指定区域内の生鮮食料品の卸売市場で卸売業務を引続き2年以上なしていた者であった。しかし、このほかに、実際にはこの時点以後、新市場開業までに、問屋からのれん分けにより独立した者、新規開業者および仲買のほかに新たに問屋行為を兼業するに至った者などが相当あった。

 ところで中央卸売市場卸売人の実際の収容に際しては、いわゆる団体組織化による収容原則があったから、旧市場において問屋組合に所属し、その規約の拘束を受ける者が優先的に入場の資格を持った。これに対して、旧市場の正規の組合員ではなくて、旧来から問屋行為を営んでいた者もまた新市場の卸売会社創立に際しては、営業権現物出資者として認められるべき権利をもつ存在であったから、こうした該当者を加えると収容すべき問屋業者の数は膨大であった。

 大正12年(1923)3月現在における大阪市中央卸売市場指定区域内の卸売市場における正規の組合員であって、かつ法による中央卸売市場の各部卸売人の優先資格保有者は、鮮魚(純問屋および問屋兼仲買人を含む。以下同じ)77名、塩干魚100名、青果286名、乾物68名、鶏卵19名、鳥肉7名、獣肉64名計621名であった。これに対し、昭和6年(1931)11月の開場前における卸売会社創立時の営業権現物出資者は鮮魚90名、塩干魚248名、青果496名の多数に上っており、さらにこのほかに木津難波市場の問屋業者で後に営業権を出資した者も多数あった。


■卸売人の単複紛争
 中央卸売市場は、指定区域内の卸売市場をできるだけ広い範囲で包括し、いわゆる類似市場を市場指定区域内に残さないことを建前としていたが、いかに近代的施設と広大な面積をもつ中央卸売市場といっても、既存の卸売市場で営業していた多数の卸売人有資格者を全部元の形のままで収容することは不可能である。このため大阪市中央卸売市場が開設認可された当時、臨時中央卸売市場調査委員会を中心に、個人問屋の中から収容する案、あるいは市場ごとに一会社を組織して収容する案などが考究されていた。

 その後、京都市中央卸売市場が卸売人の収容をめぐって激しい単複紛争を起こした結果、昭和2年(1927)12月、単一卸売人制で開場した。この紛争前後から、大阪でも京都同様、取扱品目ごとにそれぞれ単一会社をつくって収容に応じるのがよいという意見があらわれ、多くの市場がこれに賛同した。その一方で、単一収容に反対する声が魚市場内部からまき起こった。

 当時、天下の魚市場として知られた雑喉場には21軒の問屋があって、大阪府・市政や大阪財界にも羽振りを示すほどの勢威を誇っていたが、その中でも神平商店(鷺池弊九郎)、綿末商店(膳末次郎)、小徳商店(井上徳兵衛)、松卯商店(澤卯兵衛)は代表的なものであった。とくに神平商店は日本水産株式会社の総代理店、綿末は林兼(大洋漁業の前身)の総代理店として群を抜いていた。松卯はおもに活魚を取り扱うという特異な存在であり、小徳は大荷主との連繋が少なかった。その他の問屋のなかには新興気運のものもあったが、すでにやや下降線をたどっていた店もあり、これら老舗を誇る古い問屋たちは膨大な老舗料をもらって新しい中央卸売市場に収容されることを望んでいた。

 こうした状況のなかで、単複争議のきっかけとなったのは、昭和3年(1928)12月、大阪市中央卸売市場の建造物中いち早く竣工した冷蔵庫の利用組合設立問題であった。同利用組合は各業界を代表する意味において、臨時中央卸売市場調査委員会を出資者とすることになり、魚市場を代表して雑喉場の井上藤三郎、天満の豊田粂造、木津難波の西川元治郎の三名が決まった。井上は井上徳兵衛の叔父で、小徳商店の実権者として早くから京都をはじめ全国の単一派として気脈を通じ、大阪の単一派のリーダーと目されていた。これに対し、雑喉場の膳末次郎が、これは公共的使命を持つ中央卸売市場の冷蔵庫を一部特権階級に占有させるものであると、猛然と反対ののろしをあげた。12月14日、膳が主導して天満、雑喉場、木津各魚市場の有志を秘密裡に住吉の新明月に集め、中央卸売市場問題の研究機関を表看板にした、大阪市場研究会を組織、結成することを申し合わせた。

 昭和4年2月14日に雑喉場生魚問屋の20人は「鮮魚卸売人は単一制を支持する」と決議したが、3カ月後の5月8日に「単一申合決議から離別申込書」に膳末次郎(綿末)、鴻野津吉郎(伊佐奈)、澤卯兵衛(松卯)、中太郎兵衛(野田庄)の四人が署名し、複数派が誕生した。この時の雑喉場魚市場組合総代は膳の本家筋の吉田猪太郎であった。
 
 これに対し昭和4年(1929)2月14日に雑喉場が、翌15日には天満魚市場がいずれも単一制収容を決議した。これによって大阪市中央卸売市場の収容案件に対する業界の大勢が単一制支配の形勢となったとき、膳らは、収容問題は業界生死の重大問題であるからなお十分研究する必要がある、との見解を表明して単一制決定に反対し、以後大阪市場研究会を牙城に公然と複数論を主張するに至った。一方、井上藤三郎、豊田粂造、西川元治郎および雑喉場の鷺池平九郎らはこの年9月大阪市魚市場連合会を結成して、単数収容による具体策を決めて、結束を固め、いらい2年間におよぶ単複論議が火蓋を切ったのであった。


■政府・商工省の方針
 中央卸売市場法に卸売人の単複の規定がなかったこと、法案成立当時は各都市の実情に合わせて決めたらよい程度しか考えてなかったこと。京都市中央卸売市場の開業に際し、これ程強力な生産者や荷主の反対に出くわすとは考えていなかった。しかし、昭和2年9月の時点で商工省は単一制を決定し、
京都市に適用したので、政府筋はすでに「卸売人は単一制」が政策課題になっていた。


■大阪市の動き
 最近刊行された当時の大阪市長『関一日記』(東京大学出版会)(以下、『日記』と略)によって、大阪市の調整と市政の動きを見てみよう。

 雑喉場の新年宴会には、関一(せきはじめ)市長は大正13年以来出席していたが、昭和4年1月15日にも出席した。この年の『日記』にごく簡単にしか触れていないが、6月21日に「雑喉場市場有志中央市場に関し陳情あり」とだけ書いてある。この陳情は、単一派か、複数派か不明である。同5年になると、新年宴会の記載はなく、9月16日に「井上、浅井外数名が陳情に来庁」とある。これは単一派のことである。同年9月22日には「両助役と矢柴部長と中央市場問題に関し協議し、大体方針を決す」とあり、すでにこの時点で関市長の腹は決まっていたのである。その後、10月2日から3日間にわたり、塩干魚部、青果部、鮮魚部の順に中之島の中央公会堂で、業者懇談会を開き、その時に複数派の膳氏らも発言しているが、「大多数は単数論者」と関市長は受取っている。10月7日には東京で商工省の高官たちと協議し、同月11日から連日のように、単一派代表鷺池ら、翌日には膳ら複数派の意見聴取、天満市場の青果代表たち、木津青果代表たちと、意見聴取の上、同月23日に中央公会堂で雑喉場の単複両派から5人ずつ代表を会合させ懇談させている。単一派は鷺池、井上、和田、西川、豊田。複数派は膳、大野、伊藤、澤、中の5人であった。

 この後、毎日のように、単複両派の意見交換の斡旋をしたり、直接代表と懇談したりして、11月16日には、単複両派代表の井上徳兵衛、鷲池、膳の3氏が、市長宅を訪ね、「中央市場収容に関し市長一任のこと」を申出てている。同月24日に中央公会堂で、鷺池、膳の両氏らに、井上徳兵衛氏立会で、市長提案の「市場収容組織ニ関スル裁定案」に出席5人の承諾調印を終えたと記録されている。翌日の25日に一般発表の「通知案」を作成し、翌26日に新聞発表した。複数派の抵抗が少し出た程度で、あとは中央卸売市場の建設の促進と、実務的な詰の急ぎに入っている。

 このような卸売市場内部での単複論争議に刺激されて、大阪市の鮮魚小売商関係団体は昭和4年(1929)9月11日に中央公会堂において大阪鮮魚買出人組合を組織するとともに複数制を決定した。さらに同組合が中心となって翌5年(1930)1月には、大阪果実小売商組合、大阪青果小売商組合とともに大阪食料品小売商組合連合複数期成同盟を結成し、複数制期成に向けての小売商側の足並みが整えられた。また、平賀周に率いられた大阪私設市場連合会までがこの同盟に加わり、大日本水産会および帝国水産会もこれに賛意と同調を示すに至った。

 このような情勢のなかで、注目されたのは魚市場仲買人の去就であった。昭和5年(1930)6月まず天満魚市場の仲買団体・一志会の代表者澤三治が単一制支持を表明。続いて木津市場の浜守一一派がこれに呼応した。雑喉場の生魚仲買組合は単複争議の地元であるだけに取引上の関係からも去就を決めかねていたが、同組合の代表小林久次郎の決断で同年9月3日に総会を開き、賛否を問うたところ、単数派が絶対多数を得た。しかし小林はさらに複数派を説得して組合員全部を完全に単数制支持にまとめた。こうして以後、魚市場における単複問題の大勢は単一収容へと傾いて行った。


■単複両派の主張
 当時の単複両派の主張を簡単にあげるとつぎのようなものであった。

 複数論者の主張=(1)複数制は適正な自由競争を現出するが、単数制は市場独占の弊に陥りやすい。(2)立法当時の精神は複数制で、このことは第46回議会でも政府委員は答弁している。(3)単一制は無競争のため、その経営が放漫に流れ業務に緊張を欠き顧客に不親切になる。(4)単数制では卸売人の違反・横暴に対し徹底的に抑制できない。

 単数論者の主張=(1)市場商品は腐敗性であるため、売惜みや買い占めが出来ず、かつせり売りであるから複数論者のいうごとき事態はあり得ない。(2)単一制は中央卸売市場の根本精神に合致し、徒らに競争する従来の弊を正し、配給の合理化を期し得られる。(3)単一制は出荷者に対し不正な呼値による投機的出荷などを除くことができる。(4)単一制では公正標準相場の確立が容易であり、荷主に対する仕切金も確実迅速である。


■関市長の裁定
 このような卸売人の単複問題に対し、学者のなかからも賛否両論が激しく行われたが、大阪市では、当初から、単複問題については、理論的得失よりも、営業上の実際問題として解決をみることが必要である、との立場をとっていた。そこで当局は昭和5年(1930)10月3日から3日間、各市場役員全部を中央公会堂に集め、関市長自ら事情を聴取した。塩干魚および青果市場は少数の反対者を除いて、新市場への収容、参加を希望し、しかもそれぞれ一会社を組織したい旨を表明した。しかし鮮魚の方からは予想どおり少数であったが、強硬な単一反対論が出た。このため関市長はその後も両派の主だった人びとと何度も会談して意見を聴取した末、同年11月26日に市長の裁定案を発表した。

 その内容は、鮮魚部卸売人制度は機能の統制を確保すると同時に、健全な販売上の競争を助長するためには、企業組織を一会社に統一するとともに、その下に多数の売場を設置し、各売場が適正な自由行動をとり得ることとし、委託者にはその売場の選択権を認めるとともに、会社がみだりに売場の運営を拘束しない制度を樹立し、かつ時勢の進運に順応して改善の余地があるようにするのが最も妥当である、として会社は単一、売場は複数とする、いわゆる主管人制度を取り入れ、単一制ながら複数制の長所を加味するという妥協案であった。これが受け入れられて、さしもの単複問題もここに一段落した。

 これより、大阪市当局は業務規程の確定作業に入り、これを市会に上程、僅か2票差で鮮魚部、塩干魚部、青果部の各卸売人一人ということに決定したが、漬物、乾物、肉類各部では複数制がとられることになった。


■老舗権の査定と卸売会社の成立
 関市長裁定案によって、中央卸売市場の水産・青果の卸売人は、営業品目の部類ごとに一卸売会社という単一制がしかれることになったが、これに伴って既設卸売市場の問屋収容問題が脚光を浴びることになった。大阪府では、問屋の収容についての老舗権、すなわち営業権の査定にあたって慎重を期するため、各業種ごとに調査会、審査会、査定会の三段階の機関を設けた。これにより、各部の老舗権はつぎのように決定した。

 鮮魚市場=当時、大阪五魚市場の問屋数は90名であったが、これを鮮魚問屋のみに限って一卸売会社に収容することになり、営業権査定の方法としては、還元法を採用した。これにより、大正10年(1921)から昭和3年(1928)までの8カ年間の平均売上高から、五魚市場の総売上高を3,000万円と算定、これを還元法で1,200万円と査定して、問屋の現物出資額とし、別に現金出資600万円(4分の1払い込み)を加えて、公称資本金1,800万円の卸売会社を設立することとなった。こうして昭和6年(1931)9月21日、大阪魚株式会社の創立総会が開かれ、公称資本金1,560万円(31万2,000株)の単一の鮮魚卸売会社が誕生した。当時の総会および役員会で取締役に吉田猪太郎、鷺池平九郎、豊田粂造、井上徳兵衛、澤平三郎、児玉文雄、遠藤武次郎、和田徳之助、小泉国次郎、春次石松、入江勘ニ郎、楳村治三郎、藤田平三郎、松本徳兵衛、監査役に宮本利右衛門、西川元治郎、長尾松次郎、本庄治三郎、久井友吉、相談役に井上藤三郎をそれぞれ選び、代表取締役に鷺池平九郎、豊田粂造、取締役会長に吉田猪太郎、常任監査役に宮本利右衛門と西川元治朗が決定した。

 また関市長裁定によって、有力問屋を中核とした22の独立売り場を設定し、これを主管人制度と称した。

 鮮魚単一制の路線が確立すると、複数派の人たちは単数卸売会社には反対の建て前上、最初、営業権の査定に応じなかったが、昭和6年(1931)3月になってこれに同意した。このため大阪市は便宜上、複数派の業者が作った大阪海魚株式会社の営業権を一括して、中央卸売市場が開場したのちの昭和7年(1932)2月、これを大阪魚株式会社に合併することで解決した。
 
 その後、さらに中谷庄吉ほか20名の老舗が加算されたが、最期まで収容に応じなかった、中太郎兵衛、八尾彌蔵、岡田松之助らの老舗はついに大阪魚株式会社に合併することができなかった。その後八尾、岡田の分については中が仲介して大阪市が補償したが、中はその老舗権27万円の補償請求権を永久に放棄した。また膳は生前ついに一度も中央卸売市場に足を踏みいれず、魚会社の経営についても口をはさまなかったと伝えられた。敗軍の将、兵を語らずとの心境だったのであろうか。


参考資料 
大阪市中央卸売市場本場開設50周年記念事業委員会編
「本場50年の歩み」
(社)大阪市中央卸売市場本場市場協会編
「大阪雑喉場魚問屋史料」より
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