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(1) 大阪平野の成立
 この大阪の土地は、昔難波津といわれ、いわゆる難波江のあったところで、みおつくしと蘆で名高かった。現在大阪市の紋章はこの"澪標(みおつくし)"である。
 地質の上からみると、大阪市内でいわゆる洪積層は上町台地のみで、昔は南から北へ海中に突出した半島状をなしていた。そしてこの半島以外の生駒山脈に至るまでの河内平野は、浅い入江をなし、その入江の中に淀川なり、大和川なりが流れ込んでいた。上流の砂が始終流れ流れて、川下が埋まり、段々と瀬ができる。その洲と洲との間をいくつもの川が流れ、そこに無数の三角州の島々ができた。その島々には蘆が生いしげり、船の出入の通行路を示す澪標が必要であった。


(2) 難波八十(やそ)島
 このようにして、難波江の中には寄洲の島がだんだんと沢山でき、葭芦の茂る八十島を形成するに至った。八十とは多くの島という意味である。その中には、大隈島、比売島(媛島)、田蓑島、御幣(みて)島、歌島、柴(くに)島など古くから名の伝わった島をはじめ、鷺島・海老州・中之島・堂島などが生まれた。その難波八十島に野田州(のちの野田村)がありその東に福島があった。 
 なお「野田」が記録上最初に表われたのは承徳2年(1098)の浪華古図で、野田州と書かれた絵図上である。


(3) 茅渟海(ちぬのうみ)
 さて、大阪湾のことを万葉集では茅渟海といわれている。これは古事記によると、五瀬命が負傷されて血を洗われ、海水が朱色に化してから、血沼之海といわれ、それが転化して茅渟海となったとの伝説がある。
 この辺りを詠んだ古歌を紹介しょう。


(4) 福島のいわれ
─ 菅原道真公と福島 ─
 約1,000年の昔より、難波八十島の一部に野田洲(後の野田村)がありその東には福島があった。
 伝承によれば、福島区の地名について「(按ずるに)此の地は菅公(菅原道真 845―903)筑紫へ渡らるる時、御船この島に着きぬ、里人に名を尋ねて、餓鬼島なりとは不祥なりとて福島と名のらる。又葭原島とも富島とも言う説あり」(摂陽群談)とあり、寿永年中(1182年)『源平軍記』に渡辺の福島也ともある。
 また上福島南2丁目、天満宮上之社伝には、「当社の御鎮座は菅公筑紫へ御左遷の御時、延喜元年(901年)2月朔日皇都を御発足、河内道明寺を経て此の島に着し、御国待の折柄、里人等、公の御旅情を慰め参らせしかば、いたくお悦びあり、折ふし織れる賤が白布に自ら御姿をおうつしありて里人に賜ふ。当時此の島を鹿鬼(がき)が島又葭原島と言ひしを、甚だよろしからざる名なりとて福島と名付け、又里人に福元と名告らせ給ふ……」とある。
 推察すれば当時は作物も育たない痩せた土地であった。福島が先に出来、野田州はその後形成されたがいつの頃にか繋がって人が住むようになり、作物が出来るようになった。その後西成郡に属し、南中島にあって野田郷といわれ元弘(1331−3)の頃に野田村に改められた。(西成郡史)
─ 藤原道長と田蓑島 ─
 藤原道長は治安3年(1023)高野山から大和・河内を通って四天王寺へ参り、10月29日田蓑島(たみのしま)を通って江口へ向かったことが、『扶桑略記(ふそうりゃっき)』に見える。田蓑島のことを『扶桑略記』は「雲海茫々、沙渚眇々」と表現している。したがって、島というよりは、砂洲の状態であったのであろう。その位置については明らかではないが、足利義詮(よしあきら)の『住吉詣』(貞治3年・1364)によると、「たみの島に上がり(中略)それより南にあたりて野田の玉川と云う所」とあるので、田蓑島は現在の鷺洲あたりに相当する。また、文化3年(1806)の増補摂州大阪地図には、鷺洲の北部を「古田蓑島」としている。田蓑島の所在地については、その他にも北区堂島説、天王寺の西側説などもある。
 なお、『源氏物語』や『古今集』の歌は

  「難波潟汐みちくらしあまころもたみのの島に鶴なきわたる」
  「つゆけさの昔に似たる旅衣たみのの島の名にはかくれず」

で『扶桑略記』の内容と同じ趣旨が歌われているようである。
『新後撰集』の

  「天の下のどけかるべし難波がた田蓑の島にみそぎしつれば」

は八十島祭のことを踏まえた歌のように考えられ、平安時代に田蓑島あたりで八十島祭を行っていたことを示す資料として考えておきたい。
─ 源義経と野田福島 ─
 江戸時代、「江戸麻布の傾城松」・「京都北野の影向松(けいこうのまつ)」とともに大阪の「福島の逆櫓(さかろ)の松」は、三都三名松と呼ばれ、浄曲ひらがな盛衰記にも書かれているし、郷土の古文書にも見られる名高い松である。

 文治元年(1185)2月16日、源義経は『平家物語』によれば、摂津国渡辺・福島両所で船揃いして、屋島へ攻め込もうとしていたところ、北風が強く木を折るほどに激しく吹き、船が損傷したため、出港することが出来なくなった。梶原景時は海戦に不慣れな東国武士のために、強風で進めない場合には引き返せるよう逆櫓を付けてはと提案した。ところが、義経は引くことを考えるのを許さず、自らの船は、元の櫓のまま出陣した。結果は義経がみごと屋島で平氏を討ち滅ぼしたのである。この海戦には渡辺津に勢力をもつ渡辺党の援助があったものと考えられている。
 義経と景時のこの争いが契機となって、景時が義経に謀叛のこころありと兄頼朝に讒言したことは、あまりにも有名な話で、この論争は歌舞伎や文楽でも『逆櫓』としてよく上演されているところである。これを顕彰して植えられたのか、「逆櫓の松」が『摂津名所図会』に紹介されている。いまは福島区福島2丁目のドリーム堂島というマンション前に石碑があり、何代目になるのか松の木が植えられている。

 田蓑島と逆櫓の松の話は歴史事実というより伝説的な要素が強い。ともに所在地が海中および海辺であることが共通点である。平安時代の福島の立地条件示している伝承といえる。


(5) 玉川のいわれ
 室町幕府をひらいた足利尊氏の子2代将軍義詮(1359〜1368)は、温雅な気風を持ち、風流を好む武将であった。貞治3年(1364)4月上旬西行法師の住吉詣にならって、難波紀行の途に就いた。淀より船で遠近の景色を楽しみ眺めつつ江口の里の夕景を愛で、朝霞の長柄にいにしえの物語などを思い起しながら、難波の浦に着いた。義詮は、ここを中心に難波の名所を探りながら、或る日、野田の池に船を着けた時、紫の藤があまりにも美しかったので、

 いにしへのゆかりを今もむらさきの
       藤なみかかる野田の玉川
             (難波紀行)

という、有名な歌を詠んだ。
 幸い当地の旧家藤家に義詮難波紀行の文が今も残されている。
 明治30年4月1日、当地が大阪市に編入されるとき、町名を玉川町と名付けられたのは、この歌によるものであるといわれる。
 此の藤に魅せられた義詮は、ここを去ることができず、池のそばに市杵島姫明神を勧請し辧財天の像を安置したということである。


(6) 荘園のこと
─ 鎌倉・室町時代の野田・玉川 ─
 奈良時代後半から貴族や寺社は独自の土地を私有し、国家によって支配されない経済的基盤を築き上げていった。それまでは国家によって掌握されていた人々も、そのような貴族や寺社の支配下に隷属することとなった。このような社会構造を荘園制度とよび、古代社会から中世社会への転機である。
 鎌倉時代になって、大阪湾内の島や洲であった福島の土地を、寺社や貴族は積極的に所領に組み込んでいった。
─ 鎌倉時代の荘園 ─
 鎌倉時代の鷺洲荘は福島区鷺洲から北区(旧大淀区)の地域に存在した四天王寺の荘園であった。おなじころ、いまの福島あたりに、福島荘があった。後嵯峨院から皇后の大宮院に譲られ、後宇多上皇・亀山法皇の手を経て、娘の招慶門院の領となった。この荘園は鎌倉幕府執権の北条家に仕える武士、安東氏が管理にあたっていた。ということは、北条氏がなんらかの形でこの地の経営に参画していたことになる。
 ともに洲あるいは島といわれ、低湿地の田蓑島や屋島へ船出する浜に近い地域であった土地の特徴をよく示している。
 なお、福島の地名を飢餓島と地元民自らが呼んでいるのを、菅原道真が福島に変えさせたというのは、よく知られた伝説であるが、土地の条件としては豊かでないことをよく示す伝説でもある。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、難波の有力寺院である四天王寺や院の領になったり、それが北条氏ゆかりの武士に管理されているのは、ここを拠点にして、河口や島、洲を開発するためであろう。

 野田の地は醍醐寺の座主が書いた日記『満済准后日記』の永享5年(1433)12月29日条に「此廬事申遣天王寺処鷺島庄内野田役」とある。足利義詮の『住吉詣』とこの日記から、野田の玉川は田蓑島の南にあたり、鷺島荘に属していたことがわかる。これによって室町時代のはじめから、野田・玉川が開けていったことが明らかである。
 鷺島荘は鎌倉時代の初めに四天王寺領であったが戦国時代の元亀2年(1571)にも四天王寺領として存続していた。
 一方、室町時代に入ると鷺島荘内でも大覚寺(尼崎市)、崇禅寺(東淀川区)、広隆寺、大徳寺の所領になった田畑も出てくる。四天王寺領であった野田の一部は、守護細川持賢によって崇禅寺の寺領として寄進された。寛正2年(1461)の目録によると南は海とされている。また、田の地は旱田と晩田に分けられているが、旱田は収穫高が多く、晩田は新しく開拓した土地で収穫高も低いことがわかる。いまの地名に反映しているかどうか明らかでないが、旱田に大野某の地名があり、晩田に江成・大開の地名が残る。

 福島庄小原郷の地頭職は南北朝期の正平6年(1351)、足利義詮から小原四郎俊秀に与えられた。また、足利義詮は南禅寺塔頭の慈聖院へ福島庄の地を寄進しているが、ともに具体的な場所は不明である。崇禅寺領目録によると、小字名に島・江・堤がつくもの多く、土地の境界を示す四至にも、川や堤が多く見られる。具体的な地域を示すことは困難であるが、島や江などつく地名は福島区には、多く残されている。


(7) 信長の大阪進出と野田の玉川
 永禄11年(1568年)9月、天下の平定をめざした織田信長は全国に勢力を広めて、信長に楯突く一向宗を支配するため、本願寺宗主顕如に石山本願寺から退去することを迫った。これに対し三好衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は野田・福島に城を築き本願寺を援助した。信長は元亀元年8月、天王寺に本陣を構え、いまの京橋前之町あたりの「ろうの岸」と川口に砦を築いて、野田・福島城を包囲した。
 さらに海老江に本陣を進め、城近くの堀を埋め、土手を築き、鉄砲をうちこみ城を攻めたてたが、三好衆も攻撃に転じ、激しい戦争がくり広げられた。そして、一時は三好衆が優位にたち、織田軍を撤退せしめた。

 野田・福島城の戦略上の地位は、瀬戸内海を通じ西国の大名との連絡ルートの要である。ここに立て籠もる三好衆は四国の讃岐に拠点をもち、物資の援助をした本拠を瀬戸内海の西、山口に置いていた毛利勢は優れた水軍を持っていた。
 天正4年(1576)以降、織田軍は本願寺の包囲を固めたが、天正4年7月木津川河口で、毛利水軍の援助を得た門徒衆との合戦で織田方の軍船は「ほうろく火矢」で焼き討ちされ、惨敗を喫した。これを川口の合戦という。そこで、海戦に備え織田軍は、鉄板を張った軍船を建造し、海上のルートを絶つことを試みた。そして天正6年の木津浦の合戦では、織田軍が野田・福島城を確保し、ついに、天正8年4月本願寺宗主顕如は大坂を退り、紀伊国の鷺森へ移った。


(8) 豊臣家と野田福島
 本願寺を退却させ摂津国を治めた信長は、天正10年(1582)閏6月西国の平定途上で明智光秀によって本能寺で殺された。あとを受け天下を手にした秀吉は、本願寺跡に大坂城を築城した。文禄3年(1594)春太閤秀吉は足利将軍義詮が訪れた地であるとして、野田藤を訪ね、茶会を催し、曽呂利新左衛門に「藤庵」の額を書かせて藤氏へ贈った。当時はまだ難波江の流れが残り、義詮が歌に詠んだ玉川の面影があったので、そこに自ら信仰している弁財天女像を祀らせた。

 秀吉の没後、徳川家康は、豊臣氏の経済力をそぎとることにつとめ、秀吉の子秀頼にすすめて、神社や仏閣をさかんに修造させた。
 秀頼は1614年、京都方広寺大佛殿を再建したが、家康はその鐘銘の語句に言いがかりをつけて、大阪冬の陣(1615年)を起こした。
 この戦の時、豊臣氏の水軍は、福島の新家に大小の軍船を配し、西軍の兵に備えた。さらに野田、海老江中島などには砦を築き、福島の砦は、大坂攻略上最も重大な地点となった。この冬の陣においても、最も特筆されるべき重要な戦いであった。
 しかし、野田新家での戦いは関東の水軍の大勝に終わった。藤庵も戦火を受けた。その年の11月28日早朝、徳川家康自らが野田福島を巡覧するとのニュースで、大坂方の真田幸村が手勢を連れ、大坂城の真田の出丸を出て天満川より舟にて福島に漕ぎ付く。蘆萩高く茂り、身をかくすのに大変都合がよかった。幸村主従はその中に隠れて静かに家康を待った。夜中になって霰雨交じりますます冷え、兵士は首は縮み、身はふるえて、歯が自然に鳴る。万事に抜け目のない幸村は兵士に、酒・油・餅を与えて時機を待った。
 しかし家康は家臣に止められ、代理として、本多正純をさしむけた。これを見た幸村は、 
 「よくよく家康は幸運な大将かな。ここにて本多正純を討っても意味がない。」
と、大坂城へ引きあげた。次の日、関東方の猛攻にあい大坂城方は、福島をすてて天満に逃げた。
 ついでその翌年には大坂夏の陣が起こり、ついに豊臣氏は滅亡し、徳川氏の直轄地となり大坂城代がおかれた。


(9) 野田村の漁師
 福島区で営まれていた漁業は、野田村(おおむね現在の野田・玉川・吉野・大開各町の周辺)が海辺に近く、安治川開削以前の大川(旧淀川)の下流に接していたので、漁場への出漁にも地の利を得て、古くから漁業に従事する者が多かった。 
 鎌倉時代末期の1331年(元弘元年)北朝の光嚴天皇が摂津・吹田の別荘に行幸した折、野田村の漁師が御膳用の魚介類の用立てをしている。これが野田村の漁師の記録としては最初のものと思われる。
 つづいて室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が1364年(貞治3)野田藤を見物し、そのあと住吉大社に参詣した折、野田村の漁師が水夫(かこ)役を買って出ている。

 1533年(天文2)8月9日京都・山科で織田信長から攻撃された石山本願寺の證如上人が野田村の砦で近江観音寺の城主佐々木六角弾正定頼の軍勢にとり囲まれ、野田村の百姓21人が討死した。この時漁師たちは、證如を魚船に乗せて逃し、木津川の葭(よし)の中に忍ばせて軍勢から守っている。
 
 1583年(天正11)豊臣秀吉が大坂城を築城した時、野田村の漁師が城石の運搬御用を務め、その褒美として、大坂浜々の荷物積卸自由の極印札を請けている。これを「上荷船(うわにふね)」といったといぅ。

 古くからの野田村の漁撈は、野田村を軸に淀川から木津川にかけての広範囲な河川流域と浪花の浦の海域で行われていた。「木津川千乗・野田川万乗」といわれ、野田川域・地先海域は摂津・浪花浦第一の好漁場であり、魚族が豊富で「魚稼第一」として繁盛していたが1624年(寛永元年)九条島・四貫島の新田開発で野田川の魚稼は悪化するようになった。
 
 慶安〜承応年間(1648〜1655)川向の鷺島(のちの雑喉場)に、大坂の生魚問屋衆が船場の上魚屋町から夏季に出店し、営業を始めたので、野田村の漁師にとっては出荷販売が有利になった。1680年(延寶8)には鷺島に大坂市中の全生魚問屋の移住が完了し、「雑喉場」と改称し、野田村の魚稼も繁盛するようになった。
 1684年(貞享元年)安治川新堀の建替でそれまでの野田川の名も途絶している。もともと浪花の浦の漁師とは野田村の漁師のことで、古くから漁稼をしてきたが、地先の濱に次々新田が出来ると、新規漁師が増え、海上での争いがやまず、混雑するようになった。

 1701年(元禄14)の「摂陽群談」には野田村の鰻が産物として記載されている。
 1739年(元文4)雑喉場魚市場での無許可販売の川魚商と、大坂で唯一の免許を受けている京橋川魚問屋の間で川魚販売をめぐり訴訟が起こった。このときは江の子島南端の島中および下福島(野田村の東隣)で川魚市が盛んに行われていたが、訴訟の結果、鯉・鮒・(せん)の三種を除き、他の淡水魚介類の取引は自由となる。1741年(寛保元年)に京橋川魚市場の問屋・仲買が野田村の川魚市反対を町奉行に停止を訴えたが、その後、再三野田村や下福島村に川魚市が開かれ、1781年(天明元年)に江戸掘下の鼻築地に川魚市が開設されるまで訴訟騒ぎが続いた。野田村の漁師にとっては有利な販売を確保できる条件であった。

 徳川時代には漁猟・商工業・運送などの営業に「運上(うんじょう)」という税金が課せられていた。
 野田村では鰯網役・鰯網・漁猟一般に三種類の運上銀が課せられ、滞納なく上納され、1870年(明治3)まで続いた。
 野田村の鰯網は、幅五百尋(約760m)余、網丈八尋三尺(約13m)、25人乗りの網船2艘と他に子船5艘を要している。漁区は尼崎沖の水尾杭から南は堺の大和川河口沖までおよそ六里(約24km)の間であった。漁期は旧暦の六月下旬より十月頃までであった。1746年(延享3)に鰯魚主野田新家村惣右衛門、同村源座左衛門らが、雑喉場の生魚問屋、佃屋源左衛門、島屋新兵衛、小鷹屋冶右衛門らと謀り、十ヵ年銀百五十目上納して、近海鰯魚の許可を出願し、免許を請け、1757年(宝暦7)までつづけたと言われる。

 野田村・難波村・九条村・大野村・福村の五漁村は、安永6年(1777)に代官風祭甚三郎から野田村47人、難波村25人、九条村26人、天保4年(1833)に代官大原吉左衛門から大野村30人、福村30人の漁師鑑札を、それぞれ交付されている。
これらの漁村は「大坂漁師方五ヵ村組合」を作ったが、この中で最も古いのが野田村であった。
 「漁師方五ヵ村組合」などで行われていた主な漁法のうち、野田村で行われていた漁法は、間稼網引漁 歩行網(かちあみ)漁 左手網漁 四手網漁 蜆(しじみ)漁 蛤(はまぐり)漁 鰻(うなぎ)漁などであった(摂津国漁法図解)。野田村では、かち網漁が盛んに行われたことを裏付けるものとして、野田恵比須(えびす)神社南門鳥居の傍らに「かち網中」と刻まれた一対の狛犬台石が残っている。安永8年(1779)在銘のこの台石には、かち網漁の漁師仲間と思われる36人の名前が刻まれている。かち網漁では鯔(ぼら)・せいご(鱸(すずき))を採った。3隻の舟に2人組の漁師(計6人)が漁場を定めてから、2隻が左右に分かれて鵜縄を川中に張り、残り1隻の2人組が川中を歩行して網を広げ、魚を捕獲したので「かち(歩行)網漁」と言った。
 また野田村・九条村の漁師によって採られた安治川の蜆は「川口蜆」と呼ばれて有名であった。また野田村の鰻は美味であって、「彦兵衛うなぎ」と言われていたことが『摂津名所図会』に載っている。

 江戸時代の野田村における漁業人口については、「大阪府下漁撈一班」によれば野田村全人口2,160人のうちの約3分の1に相当する専業・兼業の732人が漁業に関わっている。
 また藤家所蔵の野田村の『村差出明細帳』には、野田村の村高は宝暦10年(1760)には1,231石6升5合。戸数・人口は581戸・2,195人となっている。この村は漁師と上荷船で繁栄していた村であることを裏付けるかのように、村高の割りに戸数・人口が他村と比較するとグンと多い。『村差出明細帳』に「男は海・川へ罷出、漁仕り申候」「屎取船三百艘 これは大坂へ屎取または田地へ土砂取り入れ申候。そのほか川々へ出漁仕り候船にてご座候」とか、「船五拾壱艘の内、三拾五艘は上荷船村方に所持仕り候」などと記載されていることでも、その賑いぶりがわかる。

 明治期の野田村の漁業は、当時としては盛大に漁撈活動が行われていた。このうち間嫁網は備中(岡山)の出稼ぎ人が、佃村等と同じく野田村の住人の名前を借りて、納税および雑喉場魚市場との取引などの危険負担を引き受ける慣習であった。しかしこれには種々の弊害があったようで、明治15年頃には漁業季節80日間を相当の代金で雇入れ、損益ともに負担することにしていた。魚介類の販売は雑喉場魚市場に委託出荷し、また市中の振売りも行われていた。


参考資料
「福島区史」 平成5年4月1日発行より
大阪市立玉川小学校 「創立100周年記念誌」より
大阪市立野田小学校 「創立100周年記念誌」より
大阪春秋社 「大阪春秋」第80号より
 
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