(9) 野田村の漁師 |
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福島区で営まれていた漁業は、野田村(おおむね現在の野田・玉川・吉野・大開各町の周辺)が海辺に近く、安治川開削以前の大川(旧淀川)の下流に接していたので、漁場への出漁にも地の利を得て、古くから漁業に従事する者が多かった。
鎌倉時代末期の1331年(元弘元年)北朝の光嚴天皇が摂津・吹田の別荘に行幸した折、野田村の漁師が御膳用の魚介類の用立てをしている。これが野田村の漁師の記録としては最初のものと思われる。
つづいて室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)が1364年(貞治3)野田藤を見物し、そのあと住吉大社に参詣した折、野田村の漁師が水夫(かこ)役を買って出ている。
1533年(天文2)8月9日京都・山科で織田信長から攻撃された石山本願寺の證如上人が野田村の砦で近江観音寺の城主佐々木六角弾正定頼の軍勢にとり囲まれ、野田村の百姓21人が討死した。この時漁師たちは、證如を魚船に乗せて逃し、木津川の葭(よし)の中に忍ばせて軍勢から守っている。
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1583年(天正11)豊臣秀吉が大坂城を築城した時、野田村の漁師が城石の運搬御用を務め、その褒美として、大坂浜々の荷物積卸自由の極印札を請けている。これを「上荷船(うわにふね)」といったといぅ。
古くからの野田村の漁撈は、野田村を軸に淀川から木津川にかけての広範囲な河川流域と浪花の浦の海域で行われていた。「木津川千乗・野田川万乗」といわれ、野田川域・地先海域は摂津・浪花浦第一の好漁場であり、魚族が豊富で「魚稼第一」として繁盛していたが1624年(寛永元年)九条島・四貫島の新田開発で野田川の魚稼は悪化するようになった。
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慶安〜承応年間(1648〜1655)川向の鷺島(のちの雑喉場)に、大坂の生魚問屋衆が船場の上魚屋町から夏季に出店し、営業を始めたので、野田村の漁師にとっては出荷販売が有利になった。1680年(延寶8)には鷺島に大坂市中の全生魚問屋の移住が完了し、「雑喉場」と改称し、野田村の魚稼も繁盛するようになった。 |
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1684年(貞享元年)安治川新堀の建替でそれまでの野田川の名も途絶している。もともと浪花の浦の漁師とは野田村の漁師のことで、古くから漁稼をしてきたが、地先の濱に次々新田が出来ると、新規漁師が増え、海上での争いがやまず、混雑するようになった。
1701年(元禄14)の「摂陽群談」には野田村の鰻が産物として記載されている。
1739年(元文4)雑喉場魚市場での無許可販売の川魚商と、大坂で唯一の免許を受けている京橋川魚問屋の間で川魚販売をめぐり訴訟が起こった。このときは江の子島南端の島中および下福島(野田村の東隣)で川魚市が盛んに行われていたが、訴訟の結果、鯉・鮒・(せん)の三種を除き、他の淡水魚介類の取引は自由となる。1741年(寛保元年)に京橋川魚市場の問屋・仲買が野田村の川魚市反対を町奉行に停止を訴えたが、その後、再三野田村や下福島村に川魚市が開かれ、1781年(天明元年)に江戸掘下の鼻築地に川魚市が開設されるまで訴訟騒ぎが続いた。野田村の漁師にとっては有利な販売を確保できる条件であった。
徳川時代には漁猟・商工業・運送などの営業に「運上(うんじょう)」という税金が課せられていた。
野田村では鰯網役・鰯網・漁猟一般に三種類の運上銀が課せられ、滞納なく上納され、1870年(明治3)まで続いた。
野田村の鰯網は、幅五百尋(約760m)余、網丈八尋三尺(約13m)、25人乗りの網船2艘と他に子船5艘を要している。漁区は尼崎沖の水尾杭から南は堺の大和川河口沖までおよそ六里(約24km)の間であった。漁期は旧暦の六月下旬より十月頃までであった。1746年(延享3)に鰯魚主野田新家村惣右衛門、同村源座左衛門らが、雑喉場の生魚問屋、佃屋源左衛門、島屋新兵衛、小鷹屋冶右衛門らと謀り、十ヵ年銀百五十目上納して、近海鰯魚の許可を出願し、免許を請け、1757年(宝暦7)までつづけたと言われる。
野田村・難波村・九条村・大野村・福村の五漁村は、安永6年(1777)に代官風祭甚三郎から野田村47人、難波村25人、九条村26人、天保4年(1833)に代官大原吉左衛門から大野村30人、福村30人の漁師鑑札を、それぞれ交付されている。
これらの漁村は「大坂漁師方五ヵ村組合」を作ったが、この中で最も古いのが野田村であった。 |
「漁師方五ヵ村組合」などで行われていた主な漁法のうち、野田村で行われていた漁法は、間稼網引漁 歩行網(かちあみ)漁 左手網漁 四手網漁 蜆(しじみ)漁 蛤(はまぐり)漁 鰻(うなぎ)漁などであった(摂津国漁法図解)。野田村では、かち網漁が盛んに行われたことを裏付けるものとして、野田恵比須(えびす)神社南門鳥居の傍らに「かち網中」と刻まれた一対の狛犬台石が残っている。安永8年(1779)在銘のこの台石には、かち網漁の漁師仲間と思われる36人の名前が刻まれている。かち網漁では鯔(ぼら)・せいご(鱸(すずき))を採った。3隻の舟に2人組の漁師(計6人)が漁場を定めてから、2隻が左右に分かれて鵜縄を川中に張り、残り1隻の2人組が川中を歩行して網を広げ、魚を捕獲したので「かち(歩行)網漁」と言った。
また野田村・九条村の漁師によって採られた安治川の蜆は「川口蜆」と呼ばれて有名であった。また野田村の鰻は美味であって、「彦兵衛うなぎ」と言われていたことが『摂津名所図会』に載っている。
江戸時代の野田村における漁業人口については、「大阪府下漁撈一班」によれば野田村全人口2,160人のうちの約3分の1に相当する専業・兼業の732人が漁業に関わっている。 |
また藤家所蔵の野田村の『村差出明細帳』には、野田村の村高は宝暦10年(1760)には1,231石6升5合。戸数・人口は581戸・2,195人となっている。この村は漁師と上荷船で繁栄していた村であることを裏付けるかのように、村高の割りに戸数・人口が他村と比較するとグンと多い。『村差出明細帳』に「男は海・川へ罷出、漁仕り申候」「屎取船三百艘 これは大坂へ屎取または田地へ土砂取り入れ申候。そのほか川々へ出漁仕り候船にてご座候」とか、「船五拾壱艘の内、三拾五艘は上荷船村方に所持仕り候」などと記載されていることでも、その賑いぶりがわかる。
明治期の野田村の漁業は、当時としては盛大に漁撈活動が行われていた。このうち間嫁網は備中(岡山)の出稼ぎ人が、佃村等と同じく野田村の住人の名前を借りて、納税および雑喉場魚市場との取引などの危険負担を引き受ける慣習であった。しかしこれには種々の弊害があったようで、明治15年頃には漁業季節80日間を相当の代金で雇入れ、損益ともに負担することにしていた。魚介類の販売は雑喉場魚市場に委託出荷し、また市中の振売りも行われていた。
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