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 新なにわ筋、玉川南公園の東、緑の玉垣に囲まれたなかに小さな祠がある。正式には春日神社というが、春日社の祠といった趣であり、昔は「藤の宮」といっていた。この地にかつて二反八畝十二歩(852坪)の名所御免地(年貢免税地)藤屋敷といわれる「野田藤発祥の地」があり、春日明神社、弁才天女社、藤波庵があった。『摂津名所図会』に春日社は「野田村林中にあり。当所、藤によりて藤原の祖神を祭るならんか」とあり、野田藤については「春日の林中にあり。むかしより紫藤名高くして、小歌節にも、吉野の桜・野田の藤と唄へり。弥生の花盛りには、遠近ここに来りて幽艶を賞す。茶店(さてん)・貨食店(りょうりや)ところどころに出だして賑ふなり」と書かれている。
 
 この春日社は野田村の庄屋であった藤家の氏神として祭られ、また、藤家は春日社に隣接して広大な屋敷を持っていたと伝えられている。祭神は天児屋根命・天照皇太神・宇賀御魂神である。その創建は藤原氏の分流、藤原藤足が、この地に移住して、その祖神春日明神を勧請したと、藤家に伝わる『藤伝記』にある。
 その『藤伝記』に元弘(14世紀)のころ、太政大臣西園寺公経が当地を尋ねられた時、西園寺家は藤原、春日明神は藤原の祖神であるから、宝剣を奉納したとあり、この宝剣が藤家に伝えられている。その後、西園寺家の一族は、たびたび一族子孫が来遊して野田藤にちなんだ歌を詠んだと『藤伝記』に記されている。
 
難波かた野田の細江を見わたせば 藤波かかる花のうきはし
(西園寺三位中将公広)
 
なつかしきいもか衣の色に咲く 花むらさきの池の藤波
(一院別当公実)
 
咲ましる花かと見ん松か枝に 十かへりかかる池の藤波
(西園寺公脩)
 
ながめやる難波入江の夕なみに よせてかえらぬ春の藤波
(冷泉為影臣)
 この地が藤の名所として知られるようになったのは、かなり大昔のことのようだ。室町幕府の貞治3年(1364)4月、足利義詮二代将軍が住吉詣での途中に野田に立寄り、野田藤を鑑賞したという。義詮は能因法師が遠く奥州へ旅に出たとき、陸奥・塩竃の「野田の玉川」(現・塩竃市袖野田町)で詠んだ「夕されば汐風こしてみちのくの 野田の玉川千鳥鳴くなり」の塩竃の「野田の玉川」清流を、ふと頭に浮かべ、この地、春日社の池を玉川と見たてて、

  いにしへのゆかりを今も紫の ふじなみかかる野田の玉川

と詠んだ。淀川の末流の清流が春日社の池に注ぎこんでいるさまを「難波江流れのすへ、池の形を玉川となぞらへ給ひ」て、この歌を詠んだと『藤伝記』や『摂津名所図会』には書かれている。
 明治30年4月1日、当地が大阪市に編入されるとき、町名を玉川町と名付けたのはこの歌によるものであるといわれている。
 いま、春日社の本殿左側の一隅に、大阪市が建てた「野田の藤跡」の碑には、義詮が詠んだといわれる歌が刻まれている。

  むらさきの雲とやいはむ藤の花 
    野にも山にもはいぞかかれる
 元亀元年(1570)のころ、三好山城守入道笑岩らが、当地野田城に居住した時、一族は春日社に深く帰依し、太刀などを奉納した。この一統の、沢田式部少輔という武将は和歌の道を心ざしていた。そのため野田藤を詠んだ数多くの和歌や賛歌を信仰する春日明神へ奉納したことが『藤伝記』に載せられている。
 
難波江の流れは音に聞へ来て 野田の松枝にかかる藤浪
(三好下野守)
 
難波なる野田の玉江の名にしおふ 匂ひ吹こす木々の藤なみ
(三好新左衛門尉)
 
住かひや藤さく野田の神垣に ちかひて是そ代々に伝ふる
(三好山城守入道笑岩)
 
ここも又おなし心に春日さす 光にもれぬ藤の神垣
(三好日向守)

 天文2年(1533)8月9日の21人討死の本願寺騒動によって春日社の境内は近江の佐々木六角弾正定頼によって火をかけられて焼失した。その後、わずかに芽を出した藤のひこばえを懸命に手入れした甲斐があって野田藤は復活した。再び人びとが来遊するようになった。
 文禄3年(1594)春、太閤秀吉も藤の花盛のころに、ここを訪れて鑑賞している。その折、休息した茶亭を「藤亭」といい、この時秀吉は曽呂利新左衛門に「藤庵」の額を彫らせたのが、いまも藤家に伝わっている。
 浪華の生んだ国学者下河辺長流もこの名勝をしたって、当地に来り、次の和歌を詠んだことが『摂津名所図会巻三』に採録されている。また、長流の筆による軸も今に藤家に残されている。
 
「さく花の下にかくるる多しと詠める方は古藤うぢの栄え、花のさかりによせたるなるべし、これは近き世に豊臣の太閤殿の麻の単衣より起りて、遂に我が大大和をさえおほひ余れる軸の勢ひ、はるかなる唐までもおびやかし給へる時にあひに相たる盛と見えては、高浜の松のひびきと四方に聞えし藤なりけむ、今そのふる根ひこばへなほこの庵の庭に残りて春を忘れぬかたみなりければ、ゆかりの色たづね来りて、見る人の絶えぬもあはれなり、それが中にほり江の川長き流れを名とせる翁ありてかく叙べよみたりし。

  みつ塩のときうつりにし難波津に
       ありし名残りの藤波の花
 
 その他、文人・詩人・俳人等多く来遊し、後世にのこる多くの詩文をも残した。

  匂へ藤いくかといはん春もなし   宗祗

  野田村に蜆ありけり藤の頃     鬼貫

  畑打よこちの在所の鐘の鳴る    菊村

  名にしおふ野田の藤波さきぬれば     
        みどり色そふ玉川の水
                   寂如
 
 この頃、参勤交替などで大阪を通過する西国大名なども噂を聞いて関心を寄せ、四国宇和島藩伊達の殿様は国元屋敷(現・天赦園)に移植した野田藤を植えていた。また享保年間(1716〜36)福岡県山門郡三橋町中山の造り酒屋の万さんは上方見物に来た時、野田藤の美しさに感激して、実を持ち帰り、植えたのが「中山の大藤」として、県の天然記念物に指定せられていたことが、十年程前に判明した。野田藤がいかに他国の人を魅了したかがわかる。
 享和元年(1801)2月に大阪の銅座役人として赴任してきた江戸の高名な文人、蜀山人こと太田南畝も野田藤見物に翌月の3月25日に訪れている。その日の日記(『葦の若葉』)には、春日社の「門前の木よりして、まず藤咲きかかれり、門に入りてみるに、木々の末に藤さきかかりて、紫の雲のごとし、又白き藤あり。これは天文2年巳8月9日、本願寺合戦の時、此所の藤焼うせたりしが、其実ばえに白き藤咲きて、そのふさ長しとぞ(中略)かたへに辨財天の宮あり。茶店によりて酒くみぬ。……」と書いている。この蜀山人は

  むらさきのゆかりもあれば旅人の 心にかかる野田の藤波

と詠んでいる。
 
 江戸時代後期には、この春日社を中心とした野田村のことを「藤野田村」という愛称で呼ばれていたことが、最近、この地の円満寺(玉川4丁目)所蔵の「宗旨寺送り状」といわれる宗旨手形のなかに「藤野田村」と書かれている文書20数通が発見された。また、天王寺区伶人町泰聖寺境内に「藤野田有志中」とした、当地の奥田作次郎などが鎮守の社の完成を記念して建てられた明治29年の碑があることなどからすれば、江戸時代後期から幕末・明治にかけて「野田藤」が大阪の名所・観光地として定着していたことを裏付けているようだ。
 
 「野田藤」は明治中頃から急速な都市化の波にあらわれて、衰退し、さらに昭和20年6月の戦災によって春日社は壊滅的に破壊され、わずかに残った藤の古木2本も昭和30年代の公害で枯死寸前まで追いやられた。しかし、昭和45年頃から、地元の人びとや大阪福島ライオンズクラブの熱心な働きかけにより、緑化百年の計画を推進する大阪市も野田藤の原状を再確認し、残っていた古木2本のうち1本を市の手で手厚く育てられ、起死回生をはかられた結果、見事な新芽をつけた。現在も区内の学校や各種団体の人びとによって「藤野田村」の昔にかえすため、最大の努力が続けられている。
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