(1) 21人討死之碑 |
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円満寺は西本願寺の末寺、極楽寺は、東本願寺の末寺である。この二つの寺は、ともに證如上人ゆかりの寺である。
天文元年(1532年)京都の一向宗寺院山科の本願寺第16代證如上人(この時上人年17才)の時、江洲観音寺の城主佐々木六角弾正定頼が、日蓮宗信者だったので、念仏宗門の本願寺の繁栄をねたみ、日蓮宗徒を集め、約3,000の軍兵を出して、不意に山科の本願寺へおし寄せた。そして八方より取囲み、本願寺に火をかけて、寺の中へ乱入した。本願寺の僧徒もよく防いだが、多勢の寄手に、さしもの本堂(蓮如上人の草創)も焼け落ちた。證如上人は近臣に守られて命がけで、大阪の石山本願寺へむかって落ちられた。 |
そして深草の里から淀・枚方をへて三島江のへんに着かれた事を聞き知った野田福島の真宗(一向宗)の門徒600人余りは、直ちにお迎えにはせ参じ、舟で證如上人を野田御堂に迎え、定頼の軍兵を一人たりとも近づけぬと、身命をすてて上人を護った。その後上人は大阪石山御坊に入られた。
定頼の大軍が、そのあとを追い石山御坊を攻めたてたが、要害堅固なことは近国第一だった上、畿内の遠近にかかわらず、はせ参じた信徒約一千余人と石山本坊の僧兵が力を合わせ身を粉にして防いだので、佐々木の一党戦い疲れて敗走した。
上人は、天文2年(1533年)8月、要地として知られた、この野田福島を見聞しようと、僅かの家臣と共に来られた際、どうして佐々木の軍兵に知られたのか、今度こそはと生い茂る野田の芦の原っぱに伏兵を大勢しのばせて、今か今かと時の来るのを待ちかまえていた。上人は、それとは露知らず不意におどり出た荒武者たちに無理無態に攻め立てられ、どうすることも出来ず、もはやここが最期かと思われた。その時、野田村の百姓門徒、これは一大事とばかり、手に手に鋤・鍬・鎌などを持ち、群がる敵の中に突き進んで命がけで戦った。佐々木方も、その勢いにおされて、一度は退いたが、多勢に無勢、信仰に一命をささげてふるい戦った野田村の衆も力尽きて21人の門徒が討死した。しかし、死をもって防いだ門徒のおかげで、上人は、危難をまぬがれ、海路紀州へ逃れられたのである。
上人は舟の中で野田村の宗徒の討死のようすをくわしく聞かれ、深く心に感じられて冥目せられ、すぐさま一通の御書を書き、感激の気持ちを示された。 |
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證如上人の御書写(引用)
「今日のかつせん(合戦)に21人うちしに(討死)のよし、いたまさしさぜひに及ばず、しかれどもしやう人(上人)の御方(見方)を申されたのもしくありがたく候、うちじに(討死)のかたがたは、ごくらく(極楽)の、わうじやう(往生)とげられ候はんずること、うたがひなく候、いよいよちさうたのみ入り候、此の由うちじにのあとへもつたへられるべく候、あなかしこ
八月九日
證如花押 |
野田惣中へ |
」 |
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この戦いの時、敵のかけた兵火のため、名勝の地玉川の藤も、藤家の邸宅も焼失してしまった。それまで地上すれすれまで下っていた美しい紫藤の面影は全く失われてしまった。 |